昭和45年5月17日  特別奉修委員



  御本部で、え~、金光様の、三代金光様の御在世のころ、今はどうか知りませんけれども、お、先生方の、一つの願いというか、え~、の中に、金光様のお取り次ぎを頂いて、御神米を4たい頂くという事が、もう一番の願いと昔から言われておりますね、金光様が、お届けをさして頂いた時に、普通、教師には3たい下がりますがね、それがあの4たい下がるということが、もう一番の教師として、私が一回あります、私はそん時知らんなりに、頂いたんですけれど、後からそれを御本で読ませて頂いてですね、あぁあん時4たいっちいうのは意味のあるのと思いよったけども、おかげ頂いておったことがありますがね。
  合楽で4たい下がったのは今日ね久保山さんが初めてでした、4たい下がりました、あの、三人が具合が悪いっち言いなさる、三人、3たいと思ったら(?)4たいで、もうとにかくですね私は思うんですけど、最近合楽の方達の信心っちゃぁもう、本当に異常なごと素晴らしいですね、あぁ誰でん、その、有り難か時にはあんな風なもんじゃありますけれども、それとちーっと違うです今まであったのと、もう本当に筋道って言うか、有り難か有り難かだけじゃなくてですね、もう教えを行じて有り難かってす、あの今の合楽の方達の場合ですね、久保山さん達、あのぉそれから田中さん達にしても中野さん達にしてもですね、それが、あの、今日の久保山さんのお届け聞かせて頂きよっても、昨日あの、丁度畑仕事しよったら、隣の方が「(?)この頃はしんぶんにあの金光様にお参りがありよりますの」っち言うちから言いなさるそうげなけん、「もうお参りをさせて頂いてもうどうして私は本当にもう、早よ朝参りば始めんやったじゃろうかっち思うごと有り難か」っち、もうそしてそれはもうしらごたるけれどもおかげ頂くこと方が、子供達、何人でも、娘がおりますが、もう一人一人がそのおかげ頂いて、具合っちいうもんがですね、「こげな事もありましたよ、こげな事もありましたよ」っち、もうそれはもうね、「私もど~うでん一遍生近くにみえとるけんお参りしようっち思いよるけんどうでん(  ?  )連れて参って下さい」っち言うちから、その言われた、そしたらその昨日、そん久保山のおばしゃまがこげなん風で、毎日お参りしてから、「こんなに金光様の信心っちゃあ有り難か」っていうことを、言いよりなさると言うて主人に話しましたらね、「そうじゃろうねぇやっぱあがしこお参りがありよるけん何かがあるとじゃろう、やっぱ家内一間ぐらい、一間に一人ぐらい誰か信心せにゃいかんけんどうでんこうでんお前が参ってくれ」っち主人が申します」っち、というようにですね、その、その(?)の具合がね、そういう風に伝わっていく具合が素晴らしいですよね、うん、今日中村さんのお話を頂かせてもらいよってもそうです、「もうとにかく腹は立てんと決めたらもう確かに腹を立てたら馬鹿らしいかっちいうこつがよぉ~く本当に分かり、もうこげなこつばどうして早よから分からんやったじゃろうかっち思います」っち中村さんがお届けしますけんね、うん、ですからそのね、もう今日の朝の御理解に、「芯から根から」ということでございましたがね、今私が、あの、そのおかげが受けられるのはね、根からっち言うのは木編にこう書いちゃるでしょうが、木編に根という字ですか、それを点々とうってからこう書いとる、ね、その根から思うとらん、木から、本当芯から思うとらんって、ね、例えばうんならこういう奉修委員Bのこつだんでん、「これだけはどうでんこうでん」っちいう芯から根からのもんが無かけんで、「御無礼します」っち言う人達が出けてくるわけ、ね、これはもう(七部?)が万事であります、信心にはこの芯から根からがもう絶対必要です、もうどんなに良か信心しよるとかこうとか言うてもね、ちょっと楽になったら、もう信心の方を楽にするといったような信心じゃだめです、有り難うして応えんけんお参りをさして頂かなければおられんというね。
  それから佐田さんが、「俺は合楽にお参りさして頂いていっちょんどうしてん合点がいかん事がある」っち言いなさるそうですもん御主人が、何ですか?っち言うたら、「親先生はお徳を受ける為には絶対、その、右、右と願えば左、左と願えば右そういう中に、その、お、修行がでけなければ、あり難い気で頂かなければって、おっしゃる、俺はそれが分からん」っち言いなさる、どげんとこが分かんなさらんじゃろうか?っち言うたら、「もう俺達のごとね、もう本当に言わば参らにゃおられんで参って行きよりゃね、もうずーっとそれこそ置いた物を取っていく以上のおかげなっていくじゃないかと、これがお徳でなくて何であろうかと俺が思うのに、困った事にならなければおかげが受けられんっち、お徳が受けられんっちいうのは、俺どんは、だから一生お徳が受けられん事になるね」っち言うて、言われたっち言うです、ね、「だからねぇ佐田さん、本当言うたらそれでお徳受けていかなければほんなこつじゃなかよ」っと私が、うん、もう本当言うたら、有り難うして、有り難いから有り難いから修行が出来る、有り難いから信心が出来る、それならもう、こんなら絶対のものなんだからねお徳を受けるという、けれども普通の者は、もうほとんど、まあ100人の内99人ぐらいはですね、へ~やっぱり、ね、本当に苦しいから一生懸命になっとるのであり、ね、あの、有り難いから一生懸命なっとるという人はもう、100に本当に1人ぐらいです、けども合楽の場合はね、有り難くならせて頂かなければおられないほどしの、言うならば教導を受けているわけですよね、実際は、だからもうほんなこつ言うなら、分からんならんとこやけど、分からんところがね、今日の朝、の御理解の中に、けれども、私がそういう下のところへ、下がって行って、これはやっぱり教導せにゃいかんなというような事を感じますけれどね、うん、そういうことなんかには、なら佐田さん達一家ん中に、一家の、信心の中には、そういう根からのところが、点々がなむなわけですよ、ね、本当に木から、根からになっておられるという事ですね、ど~うでも信心にゃぁもう絶対です、この芯から根からの思い込みというものがなからなければ、おかげは受けられませんね。 どうぞ。